[エッセー 1998.4]

小国文男

縁側

 縁側の存在が気になりだしたのは、いまの家に越してきて以来のことだ。といって、わが家に縁側があるわけではない。むしろ、ないから気になっている。
 いまの家に越してきたのは3年ほど前のことだった。もとは全て洋室という間取りだったが、2部屋に畳を入れて和室にした。
 細長く少しいびつな和室の窓際に、僕は寝ることになった。そのようにしか布団を敷くことができなかったからだが、実際に寝てみると、頭のすぐ横に窓ガラスがくる。1枚のガラスを隔てているだけで、ほんの15cmほど向こうはもう外なのだ。
 雨が降ると、ベランダに落ちる雨音がよく響く。ふと、シブキが飛んでくるような気にさえなってくるのだ。風が吹けば、窓がガタガタと揺れるのが直接伝わってくる。
「ここに縁側があったらなあ……」
 僕はそのとき、ハッとした。
 縁側──それは幅約90cmの廊下のようなものだ。しかし廊下としての役割以上に、外の世界と室内を隔てるエアクッション、それが縁側の一番大きな役割なのではなかろうか。
 僕が育った田舎では、昔もいまも、家々には当たり前のように縁側がある。そこに住んでいた頃は、縁側の存在に特別な意味を感じたことはなかった。
 20年前に田舎を出て、下宿やアパート、マンション暮らしが始まった。もちろんいずれも縁側などなかったが、縁側がほしいとは一度も感じなかった。
 独り暮らしの頃は、部屋の真ん中で寝られたから、窓との間にある程度の距離があった。結婚してマンション暮らしになったが、マンションは間取りの関係で「窓のない部屋」ができる場合が多い。だいたいDKやLDK、または納戸などに当てられているが、わが家はそこを寝室にしていた。だから外との間には別の部屋など空間があった。きっとこれらがエアクッションになっていたのだ。
 振り返ると一度だけ、結婚直後に住んだ2Kのアパートに小さな縁側があった。当時はここも部屋にしてしまえばもっと広くなるのにと思ったものだ。規模に比べると贅沢とさえ思った縁側の役割に、そのときは気づかなかった。
 都会では、縁側のある家を見かけることは少ない。たまに見つけると、それは大きくて立派な家か、または古い家であるようだ。縁側がないのはスペースに余裕がないのか、それとも不要とされているからか、そのあたりはよくわからない。
 しかし、一見無駄とも思えることが実は重要な意味をもっているということに、改めて感じ入る。車のハンドルにだって必ず「あそび」があるし、仕事だって、ある程度の時間的精神的余裕がないと、なかなかいい仕上がりにはならない。そして何よりも、生活そのものにもう少しこうした余裕がほしいものだ。
 もし、別の家に住むことができる機会があれば、僕は小さくても縁側のある家に住みたいと思う。

(記/1998.4)

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