[エッセー 1996.12]

小国文男
ぶらりバーめぐり(1)

バー「幟(のぼり)」と石川明さん

写真
石川明さん
「千年の陽だまり」連続ハガキ(豆塚猛・撮影、ひらのりょうこ・文)より

 石川明さん。京都、木屋町三条下ルのバー「幟(のぼり)」のマスター。
 戦後すぐにこの世界に入ったベテランで、京都のバーテンダーの草分け的存在だ。今年七十歳だが、チャコールグレーのスラックスにグレーのベストが決まり、少しも年齢を感じさせない。
「今でこそたくさん手に入りますけどね、当時はお酒がありませんで……」
 石川さんはバーテンダーの修行を、今も「アメリカさん」と呼ぶ進駐軍のホールで始めた。一九五八年に店を構え、もう四十年近くになる。若い頃は日本バーテンダー協会のカクテルコンペティションなどでもならしたという。
「幟」は、ちょっとレトロな雰囲気だ。バーにしては低いカウンターだけの十数席。店の中央部に壁から張り出す柱のために、カウンターはそこだけくぼめてある。ビニールレザー張りのバック付イスにも年期が感じられ、バックバーには洋酒のボトルが並ぶ。店の奥には、祭の幟を描いた額がさりげなく飾られている。
この雰囲気が実に渋いんだ。僕は、すっかりここが気に入ってしまった。
 カクテルは「マティーニに始まり、マティーニに終わる」といわれる。石川さんのおすすめのカクテルもやはり、マティーニだ。
 ジンとドライベルモットをミキシンググラスでステアする。ショートのカクテルグラスに注がれ、オリーブが添えられる。そしてレモンピール。
「私はいつも八対二の割合でつくります。よくご存知の方は『八二(はちに)をくれ』と言われましてね」
 ジンが八、ドライベルモットが二の割合だ。これでもかなりドライ。
「ドライマティーニになりますと、ベルモットはもう香りづけだけですね」
 石川さんは、ミキシンググラスに氷を入れてドライベルモットを注ぐと、すぐにベルモットを捨てた。香りだけが氷に残る。そしてジンを注いでステアする。
「ほとんどジンです」
 これを味わうと、さっきのマティーニさえまろやかに感じられる。
 石川さんは、カクテルの飲み方も教えてくれる。ショートカクテルは、なるべく早く飲むのがコツだ。
「シェイクすると、どうしても水っぽくなりますからね」
 考えてみれば、シェイカーにお酒と氷を入れて振り、混ぜながら冷やしているのだから、当然氷が溶ける。その分だけ水っぽくなるのは当たり前だし、時間がたてば味も落ちる。だから、カクテルを美味しく味わうには冷たいうちに飲むのがよい。そしてそれは、バーテンダーに対するエチケットでもあるようだ。
 僕のお気に入りは、ウオッカのスピリッツ。九十六度ある。ほとんど注射時の消毒アルコールの様相。唇に近づけると冷やりと昇華するようだ。
「人間が飲める最高の度数でしょうね」
 と石川さん。知り合いのスナックのマスターに「ウオッカは一気に飲むもの」と教えられたが、「これはゆっくり飲んでください」と石川さんにたしなめられた。
 最初はおっかなビックリだったが、何度が通ううちに慣れてきた。するとこの無味無臭の液体が、ほんのり甘くさえ感じられる。そしてファンになる。
「スピリッツを飲みたくなると、ここに来るんですよ」
「まあ、家で飲むものじゃないですからね」
 若いバーテンダー氏が応じる。そしてスピリッツに慣れると、これまた六十度くらいのウオッカのうまさがたまらない。
 店は木屋町通り東沿いのビルの一階。小さな木のドアと「幟」とだけ書かれた小さな看板が目印だが、気をつけないと通り過ぎてしまうから要注意。

※この小文は、1996年12月発行の「Aisian Press」第7号(エイジアンの会事務局編集部発行)に寄稿した原稿に若干補筆したものです。

(記/1996.12)

※残念ながらこの店は閉店となり、いまはもうありません。(2004.1.2追記)


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